季刊誌『屋久島ヒトメクリ.』8号(ArBor出版、2012年7月5日発行)寄稿文

旧石塚歩道(石塚集落跡)探索記(上)

 「最近どんな所を登ったの」と尋ねられて「石塚集落跡」と答えると、意外な事に屋久島の人からも「何処それ」と聞かれる。
 石塚集落とは、縄文杉登山の一般ルートを通った人なら必ず目にする小杉谷集落の弟分で、安房川南沢の対岸上で徒歩1時間離れた所にある集落の事である。どちらも小杉谷小中学校区で昭和45年に廃村となった。小杉谷事業所の詳しい資料や映像を見ると必ず顔を出している。とは言うものの、石塚集落跡を通る旧石塚歩道(旧安房歩道)は、淀川登山口に林道が開通するまで宮之浦岳登山のメインルートだったのにも関わらず、その時代にここを通る山ヤには興味対象外であったようで殆ど記録を見た事が無い。
 対して、私は山の中にある人の営みの跡に興味を示す性質で、2002年に足を運んだ石塚集落跡についてホームページに公開したことがあった。これが「廃村をゆく」(イカロス出版)というムック本の編集者の目に留まり、屋久島代表として昨年に参加させて頂いたが、調査不足であったのが気掛かりだった上、まだ見ぬ場所にヘリポートや立派な鳥居もあると聞いて十年ぶりに探索することにした。

●2012年2月1日
 トロッコ軌道終点を目的地として地図上で確認すると片道3時間で行けそうで(実際はそんなに容易く無かったが)、何だかんだ遅れて12時半に荒川登山口を出発した。仕事中のトロッコ車に出会ってわくわくしながら40分後に小杉谷集落跡に到着する。久々の小杉谷を20分程散策したところで小杉谷-石塚の分岐に戻る。さあ、ここからは完全に孤立無援の世界だ。万一大怪我をしたら這ってでも自力で帰還せねばならない。気を引き締めて旧石塚歩道に入った。
 トロッコ軌道は枕木が海草みたいなヌルヌル成分に覆われており、滑らないよう枕木の間を狙って足を運ばないといけないのが面倒だ。ただ、縄文杉ルートと違って枕木と枕木の間の土がえぐれていないので、下を見続ける必要が無いのは良い。10分程して測水所が現れた。足元の堀を轟々と流れる大量の水が何故だか恐ろしく見える。更に10分後、今度は手回し式のリフトが現れた。安房川南沢対岸の縄文杉登山道へ数本のワイヤーが延びていて、今でも現役の様だ。ここまではこれら施設の用事で時々来る人が居るようで、ここを境に橋の歩き難さがランクアップする。橋の中央に敷いていた渡し板が殆ど無くなるのだ。前述の通り枕木はヌルヌルして滑り易く、万一こけた場合は橋下落下までは無いものの、レールや枕木の角で強打は確実で、最悪の場合は股間をヒットしてしまう。十年前初めて通った時は、枕木の隙間の土台を一段一段踏みしめレールを掴み、数m下の川面を眺めながらおっかなびっくり渡ったものだ。でも今回は問題ない。簡易スパイクと登山スティック装着で、次々現れるスケルトン橋を難なくこなす。
 リフトから30分以上歩くと苔むした石垣やコンクリート塊が現れ、14時半に石塚集落跡中心部に到着した。造林寮の跡らしく、沢山の部屋に分かれたコンクリートの土台が残っている。十年前とあまり変わっていないが、足元のレールは更に成長したふかふかのミズゴケに飲み込まれようとしていた。ここはいわゆる廃墟なのだが、辺り一面が木漏れ日を浴びたコケと杉に覆われており、キラキラ光る景色の中で穏やかな気持ちで昼食を済ませる事ができた。ちょっと奥に下ったところに建物の土台のようなものが幾つか見えて気になるが、下山時に余裕があれば見に行こう。(後で調べたところ、この辺りの土台と思われたものは、殆ど五右衛門風呂跡だった。)

 ここから先は初めて見る世界。十年前は更に続くスケルトン橋にうんざりして引き返したが、装備が充実した今回は違うぞ。タカサゴサガリゴケに覆われた住居跡など通り抜け、急カーブを幾つかこなして森が開けてきたと思ったら、突然大きな広場に出た。広場の手前側には灰色の砂利が円盤状に盛ってある。どうやらヘリポートらしい。住居跡はこの付近を最後に見当たらなくなった。
 15時前、また大きな広場に出た。土埋木を集めて保管していた場所らしい。向かいの丘の上まで何故かここだけ赤茶けた裸地で、一抱えもある木片が沢山転がっており、片隅にはワイヤーロープを積み入れた上屋や集材機が残っていた。少し先には床下が捲れて剥き出しになったプレハブ小屋もあった。かつて集落が栄えていた頃の緊急事態用だと思っていた5分前に見たヘリポートはこの為にあったのか。10分歩くと暗い森となり、今度は線路脇に軌道集材車が現れた。ボディーは完全に風化し、剥き出しになったエンジンと牽引機がまるで展示された恐竜の化石のようにきちんと並んで残っていた。ちょっと先にはヘアピンカーブがあり、カーブ内側はまた土埋木の置き場になっていた。更に10分程は普通のトロッコ軌道が続く。

 右手の川の向こう岸にレールの残骸が見えるなーと思っているうち、大きな沢に出くわした(石塚沢、この時は24k沢と思っていた)。足元のレールは沢の手前で引きちぎられてぐにゃりと曲がっており、その先にあったと思われる橋は陰も形も無くなっていた。代わりに沢の中央には上面が平らに削られた大木が「さあ渡れ」と言わんばかりに寝そべっており、その両端には危なっかしいハシゴ橋が掛けてある。この付近で遭難しかけた方のブログを一昨年読んだ事があるが、そのときにすべり落ちて怪我をしたという丸太橋はどうやらこれらしい。今回の装備だと滑る心配は無いが、丸太の削りが少ない部分を歩く時は流石にどぎまぎした。その奥のハシゴ橋は30度位傾いて上に乗れなくなっていたが、上流側の岩伝いに難無く渡る。一仕事終えた気分で対岸に上がるとレールの続きがあり、5分程で線路を占拠しているトロッコ車に出会う。文字通り「MY WAY」とばかり、レールに被さる形でガレージが組まれており、トロ箱のような荷台を引いた状態でそれは眠っていた。この車両はいつでも動かせるように名義も残したままだと聞いた事があるが、床が完全に抜け落ちる位サビだらけだし軌道もずたずたなので、このまま二度と目覚める事はないのだろう。

 15時半、トロッコ軌道は沢の源流のような風景になった。ちょろちょろ流れる水に浸かった枕木は流木のように磨り減っていて黒ずんでおり、両脇と下からコケが侵食している。そんな光景を楽しんでいる内に暗い森に変わり、軌道を半分塞いでいる大木が現れたと思ったら、流れが急な沢にレールが切られていた。左の上り斜面には簡単な木の階段が取り付けられており、「もしかして鳥居への参道か」と行けるところまでのつもりで登ってみる。枯れかけた沢に沿った登山道を恐る恐るひたすら上り、10分程するとまたトロッコ軌道に出た。こちらは侵食の少ない道で歩きやすい。
 軌道に出てすぐに左上に人工物がちらりと見え、脇にあった立派な階段を登ると噂の鳥居があった。こんな山奥にあるのが不自然なくらい立派な石造りの鳥居で、中央に「屋久島大社」と書かれてある。鳥居の奥にお宮の跡は無いか探してみたが深い森があるだけで、代わりに登山道目印のピンクテープが続いているのが分かった。再びトロッコ軌道に引き返すが、またすぐその先は橋が流されたやや大きな沢で、すぐ脇にハシゴ橋が掛けてある。こちらは全く怖い思いする事無く渡れた。(この時は、この24k沢がトロッコ軌道終点近くの奥石塚沢だと思っていたので)
 ここまで来たら軌道終点を見てみたいと先に進む。時には大きな根っこを乗り越えたりしながら、砂に埋もれたり水に浸かったりのトロッコ軌道を進むが、10分後の16時過ぎ、渡し板や枕木がボロボロになった小さな橋に来たところで日暮れとなったようなので、本日は引き返す事にした。造林寮跡に戻った辺りで完全に夜になった。夜の山歩きは慣れているが、風も激しくなりヘッドライトの視界に入った揺れる草がじゃれついてきた犬に見えて「うわっほ」と驚いたりと、ちょっとスリリングであった。19時に荒川登山口に無事下山した。
 おさらいをして、2月20日の再調査編に続く・・・?