標高1000m。石塚集落(下側)の住宅密集地から更に徒歩1時間、200m程高度を上げて奥に進んだところ。
集落の上側と言っても、学校から離れすぎているため世帯持ちは生活できず、
もし家があったとしてもせいぜい宿直室ぐらいだと思われる。ここ辺りに関する資料はほとんど無い。
ヤクスギランド線が出来る前に宮之浦岳へのメインルートとして使っていた登山者の記録や
集落の住人の回想録でもこのエリアがスルーされているので、特に変哲も無い山奥のトロッコ道だったのではないだろうか。
屋久島大社鳥居そばの24k沢。石塚集落(下側)からの歩行が1時間半かかることや標高1030mという高度計測値から、当初は奥石塚沢だと思っていた。
ところが、奥石塚沢(と思った)の次の沢への道程がどうも辻褄が合わない。
そのうち鳥居の奥に石塚山登山口の札を見つけ、「あれー、旧石塚山登山道は24km沢出合いにある筈なのに奥石塚沢近くにも?」
狐につつまれた気持ちでもしやと思いS52年の航空写真と照らし合わせてみると、
登山地図の方は土埋木作業場辺りの大きな回り道が省略されていたり、トロッコ軌道の標高が100m下にずれて記載されている事が判明。えーっ!
しかしながら、なぜ楠川の神社と同じ名称なのか、
小杉谷の山之神神社は集落の歴史書に登場するのに、なぜそれより立派なこの鳥居の神社が登場しないのか、疑問が一気に解決。
実際に楠川の屋久島大社へ行って聞いてみると、やはりこちらで建てて、今でも毎年石塚山にも登ってお参りしていると言われた。なぁんだ。
太田五雄著『屋久島の山岳・近代スポーツ登山65年の歴史と現在』では、トロッコ軌道と24km沢の出合いで右岸ブロックの階段を登る、
旨の旧石塚山登山道の記述があるが、階段以外の人工物について全く触れられていない。
つまり、太田氏が通った時は石塚集落廃村間近かその後で、鳥居はまだその頃建っていなかった事も伺える。
(昭和45年に石塚集落が廃村となり、その後数年間のブランクがあって、楠川の屋久島大社完成の昭和52年辺りにこの鳥居が建てられたのだろう。)